母の日に あるいは 手をつないでください

何でもない白い紙ナプキンが、バラ色のリボンで結ばれて、お祝いの色になる。3人分のナイフとフォークが並べられている小さな食卓の脚の間には、電器炬燵のヒーターが見えている。
その炬燵テーブルにもパッチワークの布と、それを汚さないように透明ビニールクロスがかけてあって、ちっちゃな私は、先っちょの丸い、プ~さんの付いたフォークとスプーンを握っていて、並べられた質素だけれど、手をかけたお料理たちと一緒に、手をつないだ母と父が後ろで笑っている。そして小さなホールケーキには、ロウソクが5本立っていた。

写真の母は、数えてみれば20代の半ばなのだけれど、三つ編みの髪を片方の肩にたらして、少女のように笑っている。背景には、狭いシンクと、湯沸し器が写っていて、その小じんまりとした部屋へ、右手を母と繋ぎ、左手は手すりを持つのだと言い張って、カンカンカンって言う音を立てて昇った、外階段の音を思い出す。

今思い出しても、母と父は仲良しだった。連れて行ってもらった、小さな動物園で、「ひとりであるくもんっ!」って繋いだ手を放し、先のほうまで駆けていって振り向くと、2人は手を繋いでいた。「私が手を繋ぐ~っ」て、ちょっと幼い嫉妬心で戻ると、父がひょいって肩車をしてくれて、母はそのシャツの肘のところを、つまんでいた記憶がある。

母の本箱には、ナルニア国物語があり、オズはシリーズだったし、ホビットの冒険からシルマリルの物語、はなはなみんみがあって、安房直子さんが揃い、さべあのまさんや坂田靖子さんのコミックス、そして沢山の絵本が並んでいた。その本たちとその本たちを好きな母の心に包まれて私は毎日を過ごした。

アルバムには、ぎこちなく並び、少しずつ寄り添い、そしてしっかり手をつなぐ、同じ時を歩んできた、母と父の写真がたくさんある。家族全員で撮った最後の写真も、私達妹弟の後ろの二人は手をつないでいた。

父が自ら命を断ったとき、母は心を閉ざしてしまった。山積になっていた実務上の問題や、心細くて泣いてばかりいる妹や弟さえそのままに、自分だけの世界に行ってしまった。

恨んだことがないと言えば嘘になる。夢の中では、何度も母を怒鳴りつけ、殴りつけ、足蹴にしたこともある。
「勝手すぎるよっ!かぁさん!!」

一度退院できた母は、昔通り美味しい、そして綺麗なお料理を作ってくれて、色の褪せたカーテン地を、飲み終わった紅茶の葉で染めてクッションを作り、お花を植えて、ハーブを育てていた。そして独りでアルバムをめくっていた。

少し経って、テーブルに父の分のお料理が何度目か並べられ、その事を祖母が少し強く言った日、母は階段を駆け上がってアルバムだけを抱き、玄関から飛び出していった。私達は、全力で追いかけて、追いついたけど、もうその目には私達は見えていなくて、父の名前を何度も何度も、出会った頃の、そして二人で歩くことを決めた頃の愛称で呼んでいた。何度も何度も。


ペンキの剥げた外階段を昇ると、ペコペコのベニア板のドアがあって、そこには母が好きなダヤンのWelcomeBoadが揺れていて、まだ三人だった家族の名前が、レザーの表札にステンシルで書かれていた。微笑んで、ほんのちょっと叱られて、そしてまた微笑み、笑いあう。妹が生まれ、父は家を建て、弟が生まれて、ずっとずっとそんな暮らしが続くのだって思っていた。

母と父は仲良しだった。きっと愛し合っていた。私にはまだ愛は判らないけれど、少しずつ母の心が染みてくる。

少しずつ戻ってきてね。とぅさんはもう居ないけれど、そして、とぅさんみたいには愛してもらえなくても、私達はかぁさんが好きです。私達と手をつないでください。

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新しい家 新しいくらし

もう外が薄暗くなった頃、カンカンカンッって、鉄製の外階段の音がして、予定よりずいぶん遅い時間に父は戻ってきた。

「悪い悪い」って言いながら、梱包の終わった少ない荷物の中で、おでかけの服に着替えて待っていた私たちを見回して、「さぁ、行こう!」って言いながら、父もスーツに着替える。

仕事と兼用の、いつか大きくなってバスになるんだよって、近所のおにぃさんにからかわれ、妹はそう思い込んでいた、神奈中バスの模様に良く似た色の、四角い軽のワゴン車に乗って、私たち家族はでかけた。

元は水路だった細い道の奥に、私たちが住んでいた、陽あたりのいい古いアパートはあって、外階段は何度も上塗りされて、剥げたところから、最初は真っ白で、次に水色になって、今は草色になったのさえわかる。

でも造りはしっかりしていて、古すぎる壁は漆喰で、天井板も杉板だったし、床はフローリングだったし、新建材は玄関だけで、アレルギーのひどかった私のために、父が探してきたその部屋で、2歳から小学生になって少しの間まで過ごし、妹はそこで生まれた。

生まれつき身体が弱かった私のために、空気のいいこの街でアパートを探して暮らし始め、入退院を繰り返す私のために、父は安定した会社を辞めて、仕事を始めた。

働いて、働いて、好きだったいろんな事を諦めて、我慢して、父は家族のために暮らし、そしてみんなで暮らせる家を建てた。

はじめて玄関を開くとき、父は拍手を打って拝礼した。

横に並んでいる母と、手をつないで後ろに立つ私と妹も、それに習って手をポンっと打って、頭を下げた。

カチャリと鍵を回して、木製の厚い扉が開くと、木の香りがして、入り口の左に手を伸ばして押したスイッチで灯った明かりは優しくて、一部屋ずつスイッチを押して明りを灯す。

明りに浮かぶそれぞれの部屋には、母が縫っていた新しいカーテンがかかっていて、父と母は目を合わせ、そして私たちを振り返って微笑む。

階段をゆっくり昇ると、二階の吹き抜けの横の廊下にはドアが4つ付いていて、一番左が、私の部屋だった。

そっと開いたドアの向こうには、先に運び込まれた、真新しいベッドがあって、それまで、一つの部屋で並んで眠っていた私には、お姫様の部屋だって思った、記憶がある。

レースのカフェカーテンの掛かった出窓を開けると、潮の香りがして、海鳴りの音が聞こえた。

そして、次の日が引っ越しで、私たちは、その家で暮らすようになった。

弟が生まれ、私と妹は学校に通い、遊び、父と母とそしてその家に育まれ守られて暮らした。ずっと、そんな日が続くと思っていたし、少しずつ大人になって、恋をし、結婚して、私もいつか、こんなお家で家族を作るんだって信じていた。

子供っぽい感傷や、思春期のありがちな、でも誰にも話せない出来事や悩みを、部屋で独りで呟くとき、家に包まれているような気がして、もう子供じゃなくなっても、私は家を「お家」と呼ぶクセがついていた。


父が自ら命を絶って、暮らしは変わった。

新しい暮らしは、それまで思ってもみない物ではあったけど、五年近い日々の中で、いつか日常になる。

父はもういなくて、母は遠い。

何度もお家に話しをする。何度も何度もいろんな話をする。

ネットの向こうにいるみんなに聞いてもらう以外に、話せる相手は、ずっと私を見ていてくれる、お家だけだ。

行って来るね、って泊まりの貸し切りに向かう。

振り向いて見る、お家の灯りは、今日も、暖かい。

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そ つ ぎ ょ う

卒業式の向こうには新しい暮らしがあって、背が伸びて、好きになった男の子と、Kissができる勇気が生まれたらステキな恋ができ、ちっちゃい子供達に、優しく微笑むことができるようになれば、ステキな愛がわかって、そして、おかぁさんになれるのだと思っていた。


筋肉はついてはいたけれど、男の子達とおんなじの、お陽さまに焼けた棒のような足と手と、まっすぐな身体で、野球をし、波に乗り、自転車で走り回っていた。

入退院の繰り返しから、少し遠のいて、それまで一人で外で遊べることはなかったので、吸入薬をポケットに入れ、父に教わった遊びに熱中し、男の子達と遊びまわっていた時期がある。

体育の着替えは、もう早くから女子と男子は別々で、オクテな私は意味も良くわからずに、「男子ってイヤラシイんだから」なんて、友達の話を、ウンウンって聞いていた。着替えの時に見る同級生は、もうブラジャーをしている子も多く、胸のふくらみに何故かドギマギしてしまい、なんだか自分が男子であるような、錯覚を覚えたりもした。

そんな日の夜に見る夢は、ある日目が覚めると、胸がぷっくり出ていて、よかったなぁって安心してみたり、突然ちんちんが生えてきて、慌てて隠して、トイレで確かめる変な展開だったりと、いま思えば、少しずつ性に気が付く、そんな頃だった。

病気がちだった私は、周りの友達が、一人また一人と生理が始まり、身体が少しずつ女の子になっていくのを、少し羨ましく見ていた。

中学に上がっても、まだ生理はこなくて、二回目の夏が来て、プール授業の着替えの時に見る同級生のカラダはもう、ほとんど女の子で、チラッと盗み見する下半身にも、私には無い茂みがあって、ロッカーの隅っこで、誰にも見られないように、急いで着替えをしていた。

心配した母親が、女医さんのいる病院に連れていってくれたのは、その年の秋で、検査して、診察してくれて、「遅れているだけで健康ですよ。」ってお墨付きはもらえたけど、母に頼んで、パット入りのブラジャーを買ってもらい、ほとんどふくらんでいない胸につけて、私は学校へ通った。

学校にいるとき、そして同性の友達といるときに、その事はすこし気になってはいたけど、その頃好きだったことで遊ぶには、男の子のようなカラダは都合が良かったし、便利でもあった。

水着で女の子だとは判るけど、子供っぽい容姿のおかげで、みんなからは性を意識せずに、可愛がってもらったし、ちっちゃい子たちからは、同類で一番でっかい奴だと思われていたようで、私の海での暮らしは、おんなじスタンスで何年も続いた。

初めての生理を迎えたのも、海だった。朝からシクシク下腹部が痛い感じはあったけど、ちょうどお腹も少し悪かったので、ビオフェルミンだけを飲んで、海に入った。

三月の半ばの海は、昨日冷たい雨を降らせた低気圧が抜けたばかりの、いい波が立っていて、まだ人も少なく、ひっつめ髪の私は、何本もいい波をつかむことができて、ご機嫌だった。

スーツを着ていてもカラダが冷えてきて、シクシクがきつくなり、そろそろ上がろうと思ったときに、スーっと何かが流れる感じがあって、あれって思って、家へ急いで帰り飛び込んだ浴室で、初潮だと知った。

お赤飯は炊かなかったけど、やっと来たことは嬉しくて、なぜだかこれでお嫁に行けるなぁなんて、本気で思った。

最初の生理が終わってから、私は初めて自分のアソコを手鏡で見てみた。

普通の皮膚が、スーッと分かれて、その間に粘膜が始まる。唇のように、始まりがハッキリしているわけでもないし、お尻の穴のように、形がハッキリしているのでのでもなくて、そのままだと、曖昧な線でしかなくて、でも指で広げてみると、なんだか小さなちょっとだけ独立した粘膜が、指で広げてみると重なり合っていて、その奥にある場所まで、広げてみるのは怖くて止めた。

毎日、お風呂で洗っていた自分の身体の一部なのに、こんな風になっていることを、私は初めて知った。そして、なんだかとても愛しくて、生理になってくれたことにありがとうってお礼をいい、どう使うのかは実感は無かったけど、大人になって、おかぁさんになるには大切なことはわかっていたので、これからよろしくって、お願いした。

初対面から、ほんの2年とちょっとで、私はそれを売ってしまった。そして20歳になった私は、今もそれを売り続けている。

子供から、女の子になって、でも私は女の子の時期が、とても短かった。キスも知らないまま、処女を売り、恋には憧れただけで、カラダを売るようになった。

あの春の日、中学を卒業し、目標だった高校に入学したとき、私はほんとに女の子で、伸ばし始めた髪はまっすぐで真っ黒で、でも同級生に比べれば、まだまだ子供で、今でもみんなは、その印象を持ったままだったりもする。

ほんとはまだ、初潮から6年しか経っていなくて、でもカラダを売ってからはもうすぐ4年になる。

中学の卒業アルバムの中には、運動会や修学旅行のスナップには、男の子のような私がいる。そして、クラス写真には、少し髪を伸ばし始めた、女の子の私がいる。

やっと大人になれたのが嬉しくて、でも子供の心が大好きで、おっかなびっくり、新しい門の前で戸惑いながら、一歩進もうとしている女の子がいる。

きみが、思っていた今日は、きっとこうじゃないよね。今の私を卒業したら、一度、きみに私は戻る。そして、もう少しだけ「女の子」を過ごし、それから、今までのいろんな私から卒業したい。

勇気を出して、ステキな人と手をつなぎ、そして、おかぁさんになって、ちっちゃい子供達に優しく微笑んでみたい。いつか。

きっと、いつか。

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着せ替え人形 そして バレンタインデー

久しぶりに箱を開けてみる。妹に譲った物も多かったけれど、今でも大切にしている着せ替え人形がある。

最初は誕生日に白いレースの付いた綺麗なドレスを着た「私」を買ってもらった。独りぽっちの「私」は、風景のつもりの絵本の森の中で遊び、畳の縁の道を散歩して、広告の紙で折った船で廊下の河を渡り、お風呂の海にそのまま浮かべていまい、印刷の色が流れ出して母に叱られ、そして純白だったお人形のドレスはまだら模様になってしまって、ぽろぽろ涙が止まらないまま、一生懸命何度も洗った。

まだらは少し薄くなったけど、ドレスは古びてしまって、それを着た「私」はもうお姫様にはなれないんだと、悲しかった。

お掃除をして、お茶碗を洗って、靴下と下着だけだけど洗濯物を畳んだ。いつもよりいっぱいお手伝いをして、コイン一個のお小遣いを貯めた。でもドレスは高くて、「私」はずっとまだらの古ぼけたドレスで暮らしていた。

ある日勉強机に、お裁縫道具と布が置いてあった。それまでの私は、お洋服は買うものだと思っていた。簡単な型紙と使い込んだ子供用のお裁縫の本も一緒に置いてあって、私は初めて針に糸を通し、布を型紙に置いてそのまま切ろうとして、型紙まで切ってしまい、セロテープで修理してから本を読み直して、ちゃこで当りを取り、線を引くことを学んだ。

3日かかって出来上がったお洋服は、簡単なワンピースだった。縫い目は飛び、横の線もでこぼこだったけど、それを「私」に着せて、ポーズを取らせてみると、なんだかとっても素敵に見えた。嬉しくって、嬉しくって、母に見てもらいに台所までかけていく。目を細めてくれた母は、箪笥から同じ柄の私のワンピースを持ってきて、着せてくれた。私と「私」は、一緒になった。

着せ替え人形を持ち寄ってお友達と遊ぶようになっても、「私」はいつも手作りの服を着ていた。母に教わりながら、難しいダーツを取り、ドレープだって出せるようになっていた。テーブルや、椅子は父が作ってくれた。お店で買ったのは、レンジだったり食器だったりと、ちょっと自分では作れないものだけだった。私は、お姫様にも、ハイジにも、魔女にだってなって、遊んだ。

箱の奥には、大きさは合っていないけど、今住んでいる家の模型がある。屋根も壁も一部外せるその模型で、私たち家族はいろんな暮らしを語り合った。少しずつできていく本当の家を見ながら、私たち家族はたくさんのお話をした。

取り出したその模型の居間に、父の役だった、私が作った熊の縫いぐるみを置いてみる。「私」にはもう色も変わってしまった最初のワンピースを着せてみた。二人だけのその家で、私たちはお話をする。

もうこの世にいない父と、もうどこにもいない、お人形遊びの好きだった女の子は、その家でお話をする。

「残り物で悪いけどチョコレートどうぞ!」

この一週間で、私は18個のチョコレートをお客さんに渡した。そして18人の男に抱かれた。


でも食べてね、私のチョコレート。そして私を見ていてください。

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「エプロンをかけためんどり」「アンジュール」そして「おおきな木」/私の大切な童話たち

「エプロンをかけためんどり」「アンジュール」そして「おおきな木」。私はこの三つのお話を、妹と弟には読ませていない。いまの仕事を始める前から、まだ読ませない方がいいって、漠然と思っていた。

安房直子さんの「エプロンをかけためんどり」は幼い三人の子に心を残しながら天に召されたお母さんにかわいがられためんどりが、お母さんの心を少しでも継ぎたいと思って、エプロンをかけてその家庭にやってくる。お父さんも重宝がって、家事一切をそのめんどりに任せる。いつしか子どもたちはすっかりめんどりになつくのだけど、お父さんはそれがだんだん嫌になってきて、新しい奥さんを迎えようって事になる。めんどりはいそいそと、その婚礼の準備をしているんだけど・・・・。思いもよらない、いえいえ、約束された結末がそこにある。

ガブリエル・バンサン の「アンジュール」は、姿さえ見えない手につかまれた犬が、車の窓から投げ捨てられるシーンから始まる。それでも犬は、追っ掛けて追っ掛けて、必死で走って、見えなくなってゆく車を、ただただ見つめている。普通の童話なら、波瀾万丈の冒険があって、劇的な再会があって、そして幸せな結末が描かれるんだけど、このお話はそうではない。出会いはあるけど、それは・・・・。

「おおきな木」はこの3つの物語の中では、一番知られているかも知れない。「ぼくを探して」から「ビッグ・オーとの出会い」の倉橋由美子さん訳の三部作で有名なシェル・シルヴァスタインの作品だ。この物語は読むときの、自分の心と立っている場所で色んな表情を見せて、違った印象を私にくれる。それぞれのシーンで繰り返され、印象深いラストでも繰り返される「それでも木は幸せだった」っていう言葉は、形は違うけどいつも心に入ってくる。

あらすじを全部書いてしまいたい気もするけれど、それぞれのお話は、私の心に映った姿でしかなくて、きっと書いてしまったらその本のほんとの姿からは離れてしまうような気がしている。

物語は必ずしも幸せな結末だとは限らない。どんなに頑張っても報われないことはいくらでもあるし、愛したから、つくしたからといって、感謝さえされない事の方が多いかも知れない。

「どうして上手くいかないの?」って叫びたくなる時、私はこの三冊の本を読み返す。

最初に読んだ時は、どれも哀しいお話だと思った。でも今は違う。

妹と弟は、一年と少しの時が過ぎて、やっと笑えるようになった。他愛無い事で喜び、悲しみ、そして怒ることだって出来る。.

4年以上の日々が流れた今は、どこかに翳りは残ってはいるけれど、父がもうこの世に居なくて、母が心を病んで病院で離れて暮らすことが日常となり、年齢相応の悩みや希望を抱いて暮らしている。もうこの三作の童話を読んだだけで、何かが変わるような年では無くなったけれど、もうすこし、ハッピーエンドを信じていて欲しい。そして幸せになってほしい。

私にとってのこの3つのお話は、大人になる扉になった気がするし、今の風俗という仕事をしてゆける、大きな支えになっている。

妹と弟には、できるだけ長く、その年齢らしい暮らしを続けてほしい。私はリバーシブルな暮らしをしているけど、父さんが残してくれた3つだけの命なんだから、当分急いで大人になるのは、私だけでいい気がしている。

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(2002年6月30日初出。2004年11月9日改稿)

私の「ブクログ」@超途中です

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あの日***していれば・・・・

封印した恋心は、いつまでもあの日のままで、その風景にいる私もあの日の姿をしている。

カラダを売るようになる前、私は一度だけデートをした

それは、処女膜を売るイベントのほんの一週間前で、せめて何かの思い出だけは持っていたいと思ったのだと、今なら判る。

16歳で晩熟だった私はキスも知らず、性的な経験はもちろん皆無だった。抱かれたいという衝動は、もうきっとあったけれど、経験がまったくない私は、それにためらいというより、恐れの方が先に立っていたのだと思う。

デートは、結局彼の胸に顔を埋めて泣き、抱きしめられはしたのだけれど、頬にキスをしてもらえただけで、そのままになった。ううん、そのままにした。

洋服越しの肌のぬくもりを、今でもふと思い出すことがある。

処女を売ったあと、何度も電話をかけようとし、なんどもメールを書いては消した。

その時頭にあったのは、あんなことをした私は、もう彼と付き合う資格は無いんだとか、汚れちゃった私を見せたくは無いんだとか、ほんとに幼い思い込みの中にいて、もう会えないことで、自分を悲劇のヒロインにし、自分を愛していただけだと今は思う。

カラダを売り始めてからも、彼に抱かれたいと思ったことは何度もある。淫夢さえ見たことがある。そして、結局、私は今日まで、金銭を介さない性行為をしたことが無い。

抱かれなくて良かったんだなぁと、今は思う。

感情のある性行為を知っていたら、ヨワッチイ私は、ソープ嬢であり続けることは難しかった。誰かに頼り、誰かに甘え、そして失うのが怖くて、嘘をつき、その嘘につぶされていた気がする。

あれから4年近い月日が流れて、たくさんのお客さんと交わり、数えきれないほどの回数、性行為をした。でも、性行為は性行為でしかなく、感情とは少し遠いところに置いておける。

それが良いことでは無いとは思うけど、私にとって性を仕事とする限り、プラスになっていることは間違いはない。

私の封印した恋心は、あの日のまま、あの日にある。

手を繋ぐだけでドキドキし、向けてもらえる笑顔だけで、幸せにな気持ちになり、ちょっとした一言で、寂しかったり、嬉しかったり、涙が出たり。

そこには、髭もほとんど見えなくて、頬の産毛が夕陽に輝いていた、まだ華奢な少年と、腰も胸もまだまだ薄い、性を知らなかった少女がいる。

そしてその二人は、もうどこにもいない。


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願い

「こどもが、しんじゃうような、せんそうがなくなりますように」

深い考えがあったわけじゃない。でも、その七夕飾りの短冊を見た父は、頭を撫ぜて、「忘れないようになっ」って呟き、そして私は今でも憶えている。9歳だった。

松谷みよ子さんのモモちゃんシリーズの隣に立っていたその本を、読んだばかりだった私は短冊にそう書いた。

「ふたりのイーダ」

この本を読んだとき、泣きじゃくらないでも、涙が溢れる事を初めて知った。

それまではそんな事を考えたことも無かった。でも、その本は静かに戦争や、原爆や、待つことや、一人ぼっちだと言う事、そして数え切れないその時はまだ知らなかった、それから出会ってきた心の動きを、教えてくれた。

その年の夏休みに入って、スノーマンやサンタさんのカワイイ絵が大好きだったレイモンド・ブリッグスの棚の端っこで、風が吹くときを見つけた。それを読んだときの驚きと、恐れと、そして言葉に表せない不安は例えようも無くて、その本を持ったまま、何もすることが出来ずに、長い時間座り込んでいたのを思い出す。

帰った来た父は、様子のおかしい私に気付いて、話を聞いてくれた。

「ちょっと早かったかも知れないな。その二冊を続けて読むのは」

私の質問に父は丁寧に答えてくれたし、母も答えてくれた。少しずつ、知らなかった事を理解し、怖い気持ちは薄れて、でも大切な事だということは理解していった。

今西祐行さん、長崎源之助さんから読み始め、中学を卒業する頃には原民喜さん峠三吉さんに辿りついていた。

整理していた父の残したレコードにこんな歌がある。

『死んだ女の子』  作 ナジム・ヒクメット 訳:中本信幸・服部伸六  作曲:外山雄三 編曲:近藤 進
高石友也フォーク・アルバム VOL.1。ライナーより引用
*********************************
以下引用

開けて頂戴 叩くのはあたし
あっちの戸 こっちの戸 あたしは叩くの
こわがらないで 見えないあたしを
だれにも見えない死んだ女の子を

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 十年前に
あのときも七つ いまでも七つ
死んだ子はけっして大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしのひとみを
あたしのからだはひとつかみの灰
冷たい風にさらわれてった灰

あなたにお願い だけどあたしは
パンもお米もなにもいらないの
甘い飴玉もしゃぶれないの
紙切れみたいに燃えたあたしは

戸を叩くのはあたしあたし
平和な世界にどうかしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように
甘い飴玉をしゃぶれるように 

以上引用
********************************

父の残した古いノートや日記には、思考や思想についての記述もある。

資料引き無しの独断的な結論や、当時大学を席巻していた流行思想への傾倒や、今は形も無くなった空虚なユートピア主義を背景にするものや、単なる若い思い込みにも溢れてはいるけれど、それはその日に、父が思っていた事なのは間違いない。

父は最期まで、そんな事は一言も語らなかった。事実は事実として私の問いに答えてくれて、自分の思考とは分けて伝えてくれていた事が、今は判る。

知っていた、あるいは好きだったナジム・ヒクメットの詩に似た言葉を、七夕の短冊に書いた娘に、父はその時何を思ったのだろう。また少しずつ、父を読み続けていこうとも思う。

今の私に、こんな大きなテーマについて、何か書くだけの力も思考も、まだ無い。

だからせめてもう一度願っておくことにする。

「こどもが、しんじゃうような、せんそうがなくなりますように」


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  波 そして 空  

考えたくない。考えても答が出ない事だけが、ハッキリしているのだけど、でも、その事を認めたくなくて、また考えてしまう。

しなければならない事は、分かっていて、それをすればいい。でもしたくない。
今した方が良い事も分かっているのだけど、先延ばしにしたい。
先伸ばしたその時には、その時にしなければならない事が今以上に山積していて、きっと先延ばしにしたことをするのか、その時に当たらなければならいことをするのか、決めなければならなくて、後回しにした事が、またその先の時間を圧迫してしまう。

この1月ちょっと、そんな事ばかりを考えていた。

カラダを売る事、そしてソープで働く事を決めた時、私は17才で、そのことが今に繋がっていることは間違いないのだけれど、今の私なら、その決断を一日延ばしにして、結局、一番悪い形で、最終的には同じ決断をしたという確信がある。そしてそれは今の私には繋がらなかったと思う。

ソープで働きだした頃、まだ高校生だった私は、学校に行く前の早朝や、ほんの少し空いた時間に海に通った。wwwに言葉を残し始めた頃の日記には生理休暇中も、タンポンを入れて海で遊んでいたことをまだ幼い言葉で書いてある。

その頃のメインゲレンデは砂浜だったので、暖かくなり、人が少なくて、波が小さめの日には水着のままで、波に乗っていた。少しずつカラダは女になっていってはいたけれど、もの心ついた時から馴染んでいたその場所で、ほんとにずっと知っている地元のサーファーのみんなに混じって、子供の頃のまんまに戻って、遊んでいた。

砂浜に座って、凪になる直前の海で、立ち上がりもしない峰の厚い波でも、うまく掴んで乗っていた、若い頃の父の姿や、初めて一人でテイクオフできた日や、下手なファッションサーファーに突っ込まれて、額を切ったときに、顔を真っ赤にして、でも、私にぶつけたその人に、怒るのではなくて、回避の方法を教えていた父を思い出したりしていた。

死んでしまった父の顔なじみのみんなは、その事に触れはしないけど、どこかから私を見ていてくれて、明るく声を掛けていてくれた。

前は、波さえ良ければ、雨の海でも楽しかった。首筋に雨粒を感じながら沖に出て、霞む海岸へ向かってテイクオフし、顔に掛かる雨も真冬以外は心地よかった。

今は禁止されてしまったけれど、海から上がると震えてしまうそんな日に、砂浜であたる焚き火の暖かさと、木の燃える香りが好きだった。

お店を移ってから、あまり海に行けなくなった。俗に高級店と呼ばれる今のお店は、日焼けは禁止されている。水着の跡は厳禁だし、顔に髪で隠れた日焼けの跡でも付けようものなら、罰金モノだ。そして風邪を引いてしまう事は、全部のスケジュールをムチャクチャにしてしまうので、冷たい海には入らなくなった。

去年私は壊れてしまって、海にも行かなくなった。海に行けなくなって壊れたのかも知れないけど。

今年も先月くらいから、なんだか調子が悪くなってきた。答えの出しようの無い事ばかり考えて、考える事で、考える振りをすることで、また現実から逃げようとしたんだと思う。

梅雨の晴れ間の今日の海は、波はひざ下で、オンショアだったけど、ロングボードで何本かつかめた。陽射しはもう夏の陽射しで、光る波頭が目に痛い。少し夏雲も見える空には、いつものようにとんびが舞っている。

父が知っていた私より、身長は5cm高くなり、父が使っていたゴッデスのロングボードも、今年は片手で持てるようになっていた。

これでいいよね、これで。
父さん、私、間違っちゃったかも知れないけど、このまま行ってみるね、行けるまで。

波を教えてくれてありがとう。こんな空をずっと見せてくれてありがとう。やっぱり私はここが好きです。

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生で射精され、血が出るまで殴られた。(あの日の私へ)

もうすぐ2年になる。あの日のことはやはり忘れられなくて、今でも夢にみる。そのことが、どういう事だったのかは、その頃よりも理解は出来ていて、今は、時々あのお客さんとその家族は、どうしているのだろう、と思えることもある。

18歳になった2002年6月18日に、私はwebで日記を書き始めた。そしてひと月も経たないあの日、個室の中で血が出るまで殴られ、初めて粘膜で体液を知り、全身に痣が出来て10日間仕事を休んだ。そしてその事を×日遅れで日記に書いた。

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side B★ 血が出るまで殴られた。

お仕事はお休み。

目が腫れて、口の内側が切れていて痛い。あそこも少し傷がある。風俗の仕事を始めてから一番ショックな日だった。身体も何ヶ所も痣になってしまっている。

ラストのご案内でボーイさんから紹介された時に、なんだか嫌な気はした。すごく若いんだけど1m80以上はあるガッシリした人。でも目が何だか泳いでいる感じがする。って言っても、これはお仕事だし、今までも、初めて会った時にそんな感じでも、お上がりの時にはニコニコさんになってもらえる事も、特に最近は多くなってきていたので、自惚れもあったかもしれない。

「あれ?」って思ったのは、服を脱ぐのを御手伝いしてから、湯船にご案内した時だった。「お客さん、なんてお呼びすればいいですか?」ってハート付きで話し掛けた答えは「お前みたいなバイタに呼ばれたくねーよ」だった。びっくりした。「すいません、ご気分なおしてくださいね」の答えは、「しゃべるんじゃねーよ」だった。しかたないので頷いて、椅子にタオルを掛けて、すこしシャワーで暖かくした。湯船から上がる気配がしたので振り向こうとすると、いきなり口をタオルで抑えられた。「ヤバイ」って思って、講習で習った護身術を使おうとしたんだけどまったく役に立たなくて、足はお客さんの足で抑えられてしまい、両手は片手でまとめてねじ上げられ、タオルはすばやく後ろで結ばれた。

上向きにされて、平手でタオルの上から殴られた。二度三度四度。そして最後に拳で一度。血の味が広がって、口の中が切れたのが判る。気が少し遠くなる。そのまま、足を掴まれたまま上げられて、いきなり挿入されてしまった。もちろんゴムなんてつけていない。

逃げようとするんだけど、力が及ばない。でもその時頭に浮かんでいたのは、事件になっちゃったら、お家のみんなに知られてしまう。お友達にも知られてしまう。学校にだってばれてしまう。そんな事ばかりだった。ベットとマットの間の床で、私はまた少しもがいた。みぞおちにショックを受けて、息が詰まって、ちょっとそれから記憶がない。

そんなに時間は経っていないと思うけど、液が流れ出す嫌な感覚で意識が戻る。生まれて初めて、私の内側は体液の感覚を知る。ノロノロと起き上がろうとすると、今度は足の甲で腹を蹴り上げられて、私は壁に飛んだ。

すごい音がして、スチーマーの横へ倒れたとこには、フロントへのブザーがある。こんな時のための。指を伸ばそうとした時に、店長とボーイさん二人がドアを開けて入ってきてくれて、即座にお客さんを抑えてくれた。お客さんは、もうニコニコ笑っていて、抵抗もしなかった。

「気付かなかった、スマン」店長は車の中で何度も謝ってくれた。「あんまり無理しちゃだめよ」って、祖母の声に、「楽したいんで、バイトの先輩の家に泊めてもらうんだもん、大丈夫だよん。心配しないでね」で電話を切る。しゃべるのが辛い。一応CTも撮った。レントゲンの結果は骨折もヒビも無かったし、口の中も縫うほどでは無かったので、ゼリー状の止血剤と全身にある打撲の治療だけで終わって私達は店に帰った。一応診断書は取った。私の本当の名前じゃないけど。深夜の病院廊下は、ぼぅっと暗くて、父が死んだ日の病院の風景に似ているなぁって思った。出口の処にあった鏡に映った私は、瞼が腫れて、すこし目の周りにも痣が出来ている。

警察は呼んでいなくて、私はホッとする。お客さんは、事務室の椅子に座っていて、おじいさんとおばさんがその横に座っていて、地域責任者の「部長」と呼ばれるお店の偉い人と話をしている。

「このコですよ。見てやってください。」私は迷わず、全部服を脱いだ。背中にはまだ赤いままの痣があるし、両足の股から足首まで、指の跡が何箇所もくっきりついている。そしてみぞおちには拳と四角形の痣が重なっている。突然お客さんが、笑いながら拍手をする。「どうします?」部長がゆっくり言葉をつなぐ。

「すいません、すいません、出来るだけの事はしますから、許してください」おじいさんとおばぁさんは私に手を合わせて拝む。「この子は不憫な子で・・・・・」

その「不憫な話」を私は少しだけ全裸のままで聞いていた。この人達の頭には、私が全裸であることも、痣があることも、生きていることも目には入っていやしない。あるのは「不憫なお孫さん」のことだけで、この騒ぎから、救い出すことしか絶対に無いって思った。

「それは判りましたから、どうしますか?」もう一度、部長が言葉をつなぐ。「おいくらくらい差し上げれば・・・・」値踏みするように、私を見ながら、おじいさんの方が口を開く。

「このコは売れっ子です。一日**万円収入があって、店は**万円の利益があります。2週間は仕事が出来ないでしょう。そして、こんな有り様の身体になって、精神的苦痛もあったはずです。どうしますか?」「とってもそんなお金は・・・」

「警察呼んで」部長は短く店長に命令する。店長は受話器を持つ。
「判りました。明日用意します。」「明日用意するんですね。明日は土曜日です。明日用意できるお金なら、今日この場で用意できるはずです。コンビニにも銀行のディスペンザーがありますから、今は」

お金はその場で用意され、配分は接客の時とまったく同じだった。慰謝料分は全額私が貰った。

「辞めるなよ」駅前のシティーホテルの支払も済ませてた部長と店長は鍵を渡す時に、そう言った。「少しゆっくり休め。でも辞めるな。あんな客ばかりではない事はお前が一番知ってるだろ。」

辞めるもんか。早く治してまた私は店に出る。そうしてお金を払って、そして貯めて、みんなで父の大好きだった家で暮らすんだ。大学にも行きたい。妹と弟も大学へ行かせたい。母にもホントに元気になってほしい。

指名してもいない私を、ちょっとだけ許してください、常連さんたち。痣さえ薄くなれば、仕事は出来る。それまで。

あんな奴で、私の心は傷ついてなんてやるもんか。ぜったいに。


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今読み返すと、恥ずかしい部分も多いけど、私はこんな風に書いた。事実と、こう思おうってことを書いた。

私の「人生最大のピンチは」きっと殴られたことじゃない。その時の負の感情だけを、もしwebに残していて、それから今日まで、何度もその感情を反芻していたら、今、こんな私で、こうして暮らしていることは無かった。いいか悪いかは別にして。

でも、ありがとう、あの日の私。


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 遠い結婚式の日

まっ白なウエディングドレスのうしろ姿は、ほんとうに華奢で、カメラが近づいていくと、アッっと目を大きくして振り向き、母は、花のように微笑む。友人たちが顔を出し、お祝いの言葉を次々と口にする。そして、ちょっと緊張した父は、周りの人達に囃されながら、ベールを軽く上げて、おでこにキスをする。母の頬もちょっぴり染まり、歓声が上がって、今から式を挙げる教会が映り、そして、蒼い空が映っていた。

撮影しているのはきっと父の友人で、素人撮りのそのビデオはピントがずれたり、的外れなアングルが延々と映っていたりもするのだけれど、その分、温かな感じがする。小さな教会は木造で、母が日曜学校に通っていた場所で、神父さんではなく牧師さんがいる。

木の長椅子に並ぶ人達も、近しい人達ばかりで、嬉しそうにみんな笑っている。「バージンロードに入っちゃダメだよ」って、カメラの人は姿の見えない声に叱られて、「スミマセン」って、自分の靴と、磨きこまれた床が、一瞬写るのも微笑ましい。

緊張しながら一歩ずつ歩く。そして、父と母は祭壇の前に並び、誓いの言葉に、力強く答える。

戸籍に最初から片親の名だけしか無い、家庭に恵まれなかった苦学生の父と、東京で何代も続いた商売を営む家に生まれた一人娘の母は出逢い、色々あったけれど、その日を迎えた。嬉しそうで、本当に嬉しそうで、その気持ちが画面からも伝わって来る。

教会から、みんなが出てきて、出席者全員で写真を撮り、友人たちとそれぞれ写真を撮り、後ずさりする父を学生時代の友人たちが捕まえて、ちょっと心配そうに、でも楽しそうに笑っている母の前で、胴上げするところでそのビデオは終わっていた。

とても幸せそうな結婚式で、とても幸せそうな二人で、とても素敵な梅雨の合間の青空だった。

そのビデオを初めて見たのは、父が自殺し母が入院した後だった。その箱には、頂いたお祝い電報の束や祝儀袋や、ささやかな宴のお品書きや席次表、色の褪せた箸袋まで入っていた。幼い頃に、母にせがんで見せてもらった結婚写真も、もちろん一緒だった。そして、母が自分で縫った、ウエディングドレスが丁寧にしまわれていた。

今でも私は思う。もし結婚できる事があるのなら、あんな結婚式がしたい。少し黄ばんではいるけれど、あのウエディングドレスが着てみたい。

父と母はあの日の笑顔からはもう遠くて、そんな事を思う私は、同じ年の友達より、結婚には少し遠い。

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